親子水入らず…育児101スタート!
退院を許可される前にはまだやることがいくつかありました。
今まで娘が着ていた病院の肌着から、家から持ってきた真新しい洋服に自分で着せ替えることもそのひとつ。その前には看護婦さんが出生時に取り忘れた足型を取ってくれました。(忘れるなんて?!)
退院する患者さんの家族は優先的に病院の正面玄関に車を寄せることが出来るので、ダンナが車を動かしている間に、私は娘を専用のベビーキャリーに乗せ、病室で待機していました。まもなくダンナが病室に戻ってきて、いよいよこの病室、病院ともお別れです。
病院のボランティアの方が(優しい叔母ちゃんでした)が私に車椅子を勧めてくれ、エレベーターで玄関まで連れて行ってくれました。ダンナは既に荷物を車に運び出してくれていたので、唯一娘の乗ったキャリーを運ぶだけ。いよいよ自宅へ向かいます。
いつもは制限速度以上のスピードで運転するくせに、この日の彼はとっても緊張していました。25マイルのところはきっちり25マイルで?、と優等生みたいな走り!
途中、病院に来られなかった知り合いのおばあちゃん夫婦の家に立ち寄り、娘との初対面をしてもらいました。この日は3月初めにしては肌寒く曇っていたので、そのおばあちゃんが作ってくれたアフガンで娘をくるんでいたこともあり、おばあちゃんも感無量でした。
そしていよいよ家に到着しました?!
我が家で唯一の娘だった?犬のサラ…
主人や私がしばらく家を空けていたことが彼女にもショックだったらしく、余り元気がありませんでした…が、娘を見せて匂いをかがせ、少しずつ慣れさせていくようにしました。
そして、眠れない毎日がまる3ヶ月続く、育児への道への第一歩を踏み出しました。とさ?!(完)***************************************************************次回からは妊娠、出産について、また一般的にアメリカで医者にかかるときの心得なんぞをお伝えできたらと思います。近日中にアップしますので、お楽しみに!
こんにちは赤ちゃん
娘が生まれてから数時間もしないうちにいろいろな人が病室を訪れ、わたしも休むまもなく対応に追われていました。それでも出産を無事に終えたという安堵感で一杯でした。
出産は病気ではないとはいえ、下半身にはアイスパックが当てられ、やっぱりしばらくは動けませんでした。導尿管も入っていたのでトイレに行くこともなくその夜はゆっくりと眠りました。
そして翌朝その管もはずされ、いよいよ自分で起き上がってトイレに…とはおもったのですが、どうしたらいいのかわからず、思わず看護婦さんにヘルプをもとめてしまいました。
というか、ちゃんと出るかわからなかったんだもん。
こういう時こそ看護婦さんを尊敬しちゃいますよね。『ちゃんとでてるよ?』とほめてくれたよ。
2日目にはお願いしていた小児科の先生が娘を診察に来てくれたり、母乳スペシャリスト(栄養士なのか)が母乳の与え方や手入れの仕方などをレクチャーしてくれました。が、私の場合母乳は持病が原因で完全に枯渇していたようでした。というか、そんな兆候がまったく感じられなかったので、一応退院時に搾乳ポンプをレンタルしたのですが、即日で返却となりました。でもこのスペシャリストの方から人口ミルクだって十分に栄養は与えられるから何も心配する事はないといわれたので、一安心。まあ、お金はかかるけど、仕方ないよね。あと、免疫を植えつけられないというのもあるかも…と一抹の心配はありましたが、チョイスはありません。
結局Dr. Kにおねだりして退院を4日後に延ばしてもらい、その間わたしはパラダイス?の中でお気楽入院生活を過ごしました。初日からアツアツの豪華食事が三食運ばれ、それもメニューから選び放題よ。スナックだって大きなバスケットにこんもりと盛られ、ジュースやソーダも病室の向かいのキッチンにある冷蔵庫からもらい放題(ただよ)。飲み物は家族やお見舞いの方たちにもあげてもOKでした。
だんだん体も元に戻りつつあり、一日中娘を部屋で見守ることもできました。
また、いろいろな書類の手続き(出生証明書、ソーシャルセキュリティーの申請、写真購入の申し込みなどなど)などをしたりして、3泊の入院生活もあっという間に終わろうとしていました。そして、いよいよ退院です。
Baby!
病院までは車でほんの7分くらいの距離で、それも夜中2時を回っていたせいもあって、あっという間に到着しました。既に病院ツアーで覚えていたとおりの道順をたどり、産婦人科病棟へ。ここで簡単な入院手続きを済ませ、私たちはプレップルームという、検査室(カーテンで仕切ってある大部屋)に通され、専用ガウンに着替えました。まもなく看護婦が来てお腹に吸盤をつけモニターが作動。内診の結果、子宮口が5センチ開いていることがわかりました。
しばらくしてから分娩室へ移動し、ここでまた本格的にモニターでチェックを受けしばらく過ごしました。なぜかもがくような陣痛の痛みはなく、とにかくプレッシャーがあまり心地よいものではありませんでした。そして再び看護婦が様子を見に来てくれ、無痛分娩をするかどうか聞いてくれました。
答えはもちろん「YES!」ですよ。
子宮口が7センチに達したとところで麻酔医を呼んでくれ、いよいよ脊髄から下半身だけに効く麻酔が入りました。
さすがにダンナはその注射針の長さに卒倒しそうになったらしいですが私には見えるはずもなく、とにかくこのプレッシャーから逃れられただけ、ほっとしました。
エピデュラル(麻酔液)がはいるとお産の進みが遅くなるので、ちょっと退屈でもありましたが眠くもなかったので、ダンナとちょこちょこと話したりして時間を過ごしました。
このあたりからダンナは常に冷静を保ち、ジーンズのポケットに両手を突っ込み、私には当たらず障らずを心がけていたそうです。これも病院で受けた講習会で知合った別のカップルのだんなさんから教えてもらった知恵だったとか…つまり、陣痛に苦しむ奥さんはどんな醜い態度に出るかわからないから、常に自分だけでも冷静でいたほうがいいよってこと、それに奥さんによっては指先で触れられるのもいや!!ってくらい気が動転してしまうらしいとも聞いたようです。全て後から知らされましたけどね。
明け方6時過ぎにダンナが兄夫婦(あの”WE ARE PREGNANT!”の義姉夫婦です)に連絡、彼らはすぐに駆けつけてくれ、分娩室にはいるなり満面の笑みを見せてくれたので、わたしもとても幸せな気分になりました。
そして9時過ぎ、いよいよ子宮口も10センチ開き、Dr. Kも来てくれました。一般的に医者はクライマックスの出産間近にくるのが通例みたいです。
そしてDr.Kからプッシュしていいよ?とOKがでてからやく1時間。
最初はどこに力をいれたらいいのかわからず、体力を無駄にしていたようですが、そうか?、便秘のときみたいに力めばでるかも!と変なアイデアが浮かび、その要領で(どんな要領なんだか。。。)やってみたら先生がほめるったら!@!
そのうちDr. Kが「ちょっと待って?」と私のプッシュを止め、気づけば赤ちゃんは先生の手の中に!
へっ?もう出ちゃったの?っていう感じでわが娘は誕生しました。
あいにくへその緒が1巻き首に巻き付いていたので心拍数が落ちるという危機も一瞬ありましたが、そのへその緒もDr. Kはカウボーイのごとく一振りで振りほどき、事なきをえたのです。(この様子はダンナが始終見ていたので、未だにカウボーイストーリーとして語り継がれております)
来たよ、陣痛が。
予定日がいよいよ3週間後に迫り、それでも会社勤めは辞めていなかったのですが、上司から『ここで(オフィスで)生まれても困るからさ?、そろそろ休んでいいよ』と優しい?お言葉を頂き、早速その週末から産休に突入しました。家にいる習慣がなく過ごしてきたので、一日一人でいてもなんだか退屈。当時は今ほどのキルト熱もなかったので、結局テレビを見てスナックを食べて?という、完璧カウチポテトに甘んじていました。まあ、妊婦でもうすぐ出産なんだから今のうちに休まなきゃね。と自分に良いように解釈して、出産の日を待ったわけです。
この間も相変わらずテレビの『Baby Story』はかかさず見てお勉強。でもこの頃からなぜか涙もろくなり、赤ちゃんが生まれた場面では一緒になって涙をながしたり、感動にむせたりしていました。やはり私の中の母性本能は確実に成長していたのですね。
ところが予定日が2日後になっても体調に変化はありません。そして予定日も何の変化もなく、あえなく終わりました。
そして予定日を過ぎた3日後…
ちょうどその日は土曜日でダンナも休み。わたしがあまりにも退屈にしていたので、それじゃードライブでもしようかということになり、近くに住む彼のおじさんの家に遊びに行きました。何の連絡もせず偶然立ち寄ったのですが、彼の別のいとこがコロラドからちょうど遊びに来ていて、その日はまたまたポットラックパーティをやるところだったのです。ラッキーとばかりに私たちも急遽参加することに(というか、既にそのつもりになっていたのですが)
このパーティの途中から下腹部にプレッシャーを感じるようになりました。それもしばらくするとおさまるのですが、またプレッシャーが来る。この繰り返しを感じながらもパーティではたらふく食べました。デザートのケーキやクッキーもしっかりとね。
そして家に帰り、しばらくしてからまた夜食?
夜9時過ぎになりソファに座ったあたりから昼間感じたプレッシャーが少し強くなり、それも感覚がだんだん縮まってきた気がしました。それでもしかしたら陣痛?と遅ればせながら実感し、時間を計ってみることにしました。時計を見ながら測ると、プレッシャーの来る間隔が20分から15分になっているのです。でもその後この間隔が続いたので、心配ではありましたが寝ることにしました。
ベッドに入ってからもプレッシャーは来ては去るの繰り返し。
そして1時半くらいに数分間隔になったところで、ダンナを揺り起こし、Dr. Kに電話してくれるよう頼みました。
ダンナ『何て言うんだよ?』と寝ぼけ眼でお間抜けな返答をしていましたが、とにかくプレッシャー(陣痛)がきているみたいだからと言ってもらい先生の指示を仰ぐことになりました。
Dr. Kはポケベルで起こされたらしく眠たそうな声だったみたいですが、それでもシャワーを浴びて病院に直行するよう言ってくれました。
いよいよ出産です!
フレンチフライで楽勝だい!
そうそう、妊娠するとある食べ物に執着すると聞いたことがありましたが、私にもそんな時期がきました。妊娠6ヶ月を過ぎたあたりから、食欲が復活!!
結構油ものもOKで、自分でも驚くばかりでした。特に会社の近くのファーストフードにはほとんど毎日通い、フレンチフライは特大をオーダーしていたほどです。
フレンチフライへの執着は結局臨月まで続きました。何故フレンチフライだったのか、7年たった今でもわかりません???
また、そろそろ名前も考えなきゃねってことで、近くの本屋で赤ちゃんの名前の本を数冊購入しました。どれをみてもしっくりこない。。。ファーストネームはアメリカ式で、ミドルネームはやっぱり日本式の名前を希望していたのでとにかく慎重に決めようと、迷いに迷って、時にはダンナと言い合いにまで発展するという状況にもはまりましたが、やっと二人で納得できる名前にたどり着きました。たぶん3週間以上はかかったのではないでしょうか。そして決めてからは迷うこともなく、既にダンナはお腹に向かってその名前で呼びかけ始めていました。きっと娘もその声が聞こえていたでしょうね。おこしてごめんね?。
この時期にはまた、小児科の先生も何人か面接して決めておきました。
妊娠後期はほんとに楽勝でした。OHの冬は半端な寒さじゃないのですが、日本式の腹巻(戌の日の腹帯でしたっけ)をするわけでもなく、シンプルな妊婦服を着て過ごしていました。
いよいよ妊娠も後期に入り、私の周りもにわかにエキサイトしてきました。
“WE ARE PREGNANT!”と雄叫び狂喜した義姉がベビーシャワーを開いてくれることになりました。
場所は我が家で、妊娠8が月も後半にはいったある週末。既に義姉から招待状があちこちに送られ、出席者は30人を越えていたでしょうか。
この日はちょうどプロフットボールの試合もあったため、男連中は皆義姉の家に退散し、試合三昧ということで、シャワーは女の園と化しました?。
メンバーは私の友人数名、義姉数名、叔母、いとこ(すべてダンナの親戚です)とその子供たち(女の子)でした。
私の特等席が決まっていて、皆の注目を浴びる位置。照れくささと顔と名前が一致しない困惑から、自分でもどうしたらいいかふらふらしてしまいましたが、そこは慣れた義姉がしきることといったら。
ポットラックのご馳走や、数え切れないほどのプレゼント、ユニークなゲームなどもいくつかやったり、おしゃべりに花が咲いたりと、とても楽しい時間を過ごすことができました。
それから2週間後には真向かいのお家で近所の方たちが別にベビーシャワーを開いてくださいました。これもまた近所づきあいのあったかさをひしひしと感じたひと時で、そしてたくさんのプレゼントでほくほくでした?。
出産を間近に控え、Dr. Kの看護婦から薦められた1日コースの出産ツアーに参加しました。これは自分が出産する病院が主催するもので、半日の病院内見学と出産のシュミレーションが主な内容です。もちろん出産に立ち会うパートナー(ダンナやボーイフレンド、人によっては母親とか姉妹とか)も同席し、レーバーコーチとしての役目などを学びます。
産科病棟はとても雰囲気がよく、病室も完全個室制で、シャワールーム、バスルームも完備されています。部屋自体もホテルの一室のような壁紙や家具が調度され、そこで緊張感が和らぎました。新生児室の赤ちゃんも見ることが出来、私たちが通りかかったときには本当に生まれたばかりの赤ちゃんが看護婦さんの処置を受けていました。でも大きかったよ、あの赤ちゃん。金髪だったしね。(ちょーかわい?)(次回はいよいよ佳境に入ります?)
忙しい日々
それからが忙しい毎日。
親、親戚、友達に妊娠のニュースを号外し、皆からは驚きと喜びのメッセージをもらいました。儀姉は『私たち妊娠したのよ?!!(WE ARE PREGNANT!!)』ともう大はしゃぎでした。
そして、早速インターネットで妊娠に関する情報を集め、いろいろな本や雑誌を購入し、妊婦としての勉強を始めました。
そこで非常に参考になった本がこれです。(アメリカで赤ちゃんを産むとき)
もちろん、バルーンとか、妊娠百科も写真付きの解説や、他の妊婦さんの体験談などが参考になり、とても役に立ちました。
またこちらのローカルテレビでは平日の昼間に『Baby Story』という番組が放映されていて、普通の妊婦さんの出産の模様を見ることが出来ました。妊婦さんの背景やベビーシャワー、出産、そして出産後の感想などがドキュメンタリー形式になっているので、とても現実的で、自分はどんな出産を経験するんだろうと、日に日に実感がわいてきたものです。
そうそう、妊娠2ヶ月にも満たない6月末に日本へ一時帰国したんでした。この旅行は妊娠前に既に決めていたのでキャンセルすることもなく決行となりました。実はこの年は亡き父の3回忌ということもあり、その法要に出席することが目的だったのですが、うれしいニュースも報告できるということで感無量でした。
帰国し実家についてからすぐに母と兄に報告した途端、母から「飛行機になんて乗ってきちゃいけないんじゃないの?!!大事にしなきゃだめだからね!」といきなりお目玉を一発受けました(獏)
出発前にDr.Kに確認し、機内は乾燥するので水分補給さえ十分していれば大丈夫とのお墨付きをもらったことも母には言ったのですが、どうも半信半疑。
もう来ちゃったんだからいいじゃん、あとは私の気分しだいだから、おいしいご飯食べさせてよ!と久々のわがままを言い放題。でもやっぱり気持ち悪くて思ったほど食べられなかったんですけど(とほほ)
そんなこんなで無事父の墓前にも報告することができ、安心してアメリカに戻ってきました。
妊娠してからも会社勤めはやめず、毎日車通勤していました。最初の3ヶ月は毎日吐き気と頭痛に悩まされ、特に会議がある日は休みがち(いい口実か。。)になったりして、社員としてはご迷惑をかけていたかもしれません。でも、アメリカで働くことの利点に、こういう弱者(妊婦も弱者扱いされます)に対する保護法が徹底していて、正当な理由がある限り会社を休んでも雇用主による社員への解雇や差別が禁止されているのです。ほんと、救済法ですよね。またFMLAという家族医療休業法という法律も適用されたので、検診のために会社を休んでも遅刻しても処罰の対象にはならず、心置きなく妊娠生活を送ることが出来ました。
妊娠5ヶ月目に入った頃、Dr. Kから羊水検査を受けるかどうか打診されました。
これは特に高齢出産をする妊婦を対象とする検査で、子宮から羊水を採取し、胎児の染色体を調べ、ダウン症などの先天性異常について調べるものなのです。もちろん胎児への影響、リスクもない事はないのですが、この利点は胎児の性別が判明することにもありました。
そして、ダンナと相談し、後者の理由から(性別がわかれば準備もしやすい!)羊水検査を受けることにしました。
そして、いよいよ検査の日が来ました。Dr. Kのオフィスの検査室に通され、大きなおなかを突き出して、いよいよ注射針をおなかに!
超音波で胎児の動きを注意深く見守りながらどこに針を通すかを確認した上で、お腹に麻酔液をちくりと投与。そして、いよいよ羊水を採取するための注射針が…かなり長いチューブで、それを見た瞬間から思わず目を閉じてしまいました。でもモニターに移る針先を見たときには、『ギョへ?、ほんとにこれが子宮に貫通したんだ!』となんだか変な感動さえ覚えましたが。そして1分もしないうちに羊水を何ccか採取し、無事終了。しばらく安静にしていなさいといわれ、思わず昼寝でもしようかと錯覚?
家に帰った後も安静にするように指示されたので、何もせずカウチでゆっくりとすごしました。
そして、数日後、やはり看護婦から結果の電話がありました。
看護婦『染色体異常などの異常はまったく認められませんでした。』
私『ほっとしました。ありがとうございました。』
看護婦『性別知りたい?』
私『もちろんです!』
看護婦『旦那さんも知りたがってるの?』
私「そりゃ?そーですよ」
ってことで、めでたく女の子が生まれることがわかったのです。
そして早速ダンナに電話で連絡。
私『検査結果出たよ?知りたい?』
ダンナ「何だって、何だって(かなり焦り気味)
私「Are you ready for a girl’s daddy?」(女の子のパパになる準備OK?)
ダンナ「@#$%$#%!@#%^$^(有頂天?)」
そして、もちろんベビー用の家具や洋服、オムツなどの日用品を買出しに行き始めました。
女の子とわかったことが買い物への引き金となり、家具もどんなものを選んだらいいのかといろいろ調べた結果、やはり伝統的なベビーベッド、チェンジングテーブル(着替えやオムツを交換するときに寝かせるテーブルのついたタンスのこと)、そのほかにもうひとつタンスを買うことに決めました。
こちらでは赤ちゃんが生まれるのに合わせ、何かテーマを決めてナーサリールームを模様替えしたり、ベッドのシーツやブランケットなどをそのテーマにあわせてそろえるのが一般的なようで、私たちはテディーベアに決めました。理由は単にかわいかったから。でもこれが生まれてくる娘の趣味の伏線だったとは。。。
夢の実現に向けて…
先日の検査結果は看護婦からの電話で知らされました。
血液検査のある数値が妊娠を妨げていたらしく、精密検査が必要なこと、また不妊治療というこれも未知な世界に自分を投入しなければならないことも告げられました。
Dr. Kは一般の産婦人科なので、不妊治療はその専門医から受けることになります。
そしてDr. Kに紹介された専門医グループの中から、やっと予約できたのがDr. Gでした。(出会いとはそんなもんです…)
この間1ヶ月は基礎体温の記録を取ることに専念し、やっとDr.Gとの面談にこぎつけました。
このクリニックもなんだか普通のオフィスのようで、ラウンジはゆったりとしていて、クラシック音楽さえ流れていました。
Dr. Gのオフィスに通され、先生とコンサルテーション(問診というか面談ですね) この日もダンナは付き添いました。
先生からはいろいろなオプションがあること、その中でも私にとっては何が必要で、どうすべきなのかを説明してくれました。また、その治療をしたから必ず妊娠するとは限らないが、ベストを尽くしてがんばってみましょうとも励まされました。内心ショックではありましたが、それも現実と真摯に受けとめ、先生の指示に従い素直に治療に専念することにしたのです。
それから数ヶ月にわたり、本格的な不妊治療が始まったわけです。
治療については個人的なことになるので詳しくは触れませんが、受けた治療は大まかには次のようなものです。
排卵誘発剤の服用、ホルモン注射、卵管の造影検査など。
排卵誘発剤は処方箋の錠剤で、最初の服用量では効き目がなく、2ヶ月、3ヶ月と経つうちに、これ以上の服用量は許されないところまできてしまいました。その服用量で2ヶ月くらいはがんばった気がします。
また、私の加入している(会社を通してですが)医療保険ではこの薬には保険が適用されなかったので、すべて自腹!最後のほうはクレジットカード払いなど、なんだか高いお買い物をしていました。
ホルモン注射も医者から処方箋が出ます。もちろん、医者に行ったり薬局の薬剤師に注射をしてもらうことも出来ますが、私の場合、自分で薬局に行き、注射キットを買って自宅で注射していました。それもダンナがDr.になってね。この注射キットの中には説明書があって、注射針の取り扱いから針の刺し方にいたるまでイラスト付きで書いてありました。
最初の頃は私も怖かったし、注射するほうのダンナも手が震え?…とぎこちなかったものですが、3回、4回とこなすうちには、『さ?て、今日はどこに打つかな?』などとジョークも出るようになりすっかり慣れっこになりました。それでもわたしのお尻は痛かったけど…(爆)
こんなプロセスのうちに、卵管の造影検査も受けることになりましした。卵子の通る管が詰まっているかどうかを検査するもので、これは大きな大学病院で受けました。予約した際に検査前日の準備などの指示書をもらい、軽い鎮痛剤を飲むように言われました。
そして、当日。看護婦に呼ばれるまま検査室へ行き、ベッドに横たわりました。検査を行う先生が登場し、モニターやら注射器(造影剤用)の確認後、いよいよ造影剤の投与です。
これも最初軽い麻酔を打ったらしく、それほど痛みもなく、自分でもモニターを通して卵管の様子を見ることが出来ました。
結果は正常とのことで、これでさらに不妊治療に専念できると安心しました。
そして、治療を始めて既に7ヶ月が経とうとしてました。
1998年春、人工授精(insemination)という方法を2回試みました。
そして5月末、来るものが来ません?!念のため予定日より3日ほど過ぎた頃を見計らい、Dr.Gに連絡しました。そして看護婦からすぐに血液検査をするよう指示を受け、検査所(ラボ)に行きました。そのときに採血してくれた看護婦さんがとても優しく、『絶対大丈夫、きっとおめでたよ?』と励ましてくれました。
翌日結果がすぐにでました。
Dr.Gから直接電話があり、”Congratulations!”といわれ、最初何のことか一瞬わかりませんでした。そして、じわじわと喜びが沸き起こり、やっと実感したのです。そう、めでたく妊娠していたのです!!!
Dr. GはDr.Kに手紙を書いて、今までの治療から妊娠の結果まで知らせておくからといってくれました。
そして数日後その手紙のコピーが私の元へも届きました。
それを読んでいくうちに、涙がつつ?…と流れたのはいうまでもありません。
血液検査の結果妊娠とわかり、一番に何をしたかというと…
妊娠検査キットで自分でも確認!
なんだか本末転倒ですが、キットのラインが2本出た日にゃ?、そりゃー大喜びでしたよ。
友達にいったら、その子はその結果が出たキット今でも取ってあるといってました。
あいにく私は捨ててしまいましたが…(まだまだつづきます)
医者嫌いからの脱出 (part 2)
紹介された産婦人科…というより、アメリカで初めて行く専門医ということで、すごく緊張し、日本で産婦人科にかかったことのない私の中でどんなことになるのかという好奇心と恐怖心が葛藤していました。初めてということもあり、この日はダンナも同伴し、先生と対面することにしました。
オフィスのドアを開けてまず驚いたのは、『クリニック』の雰囲気がまったくなかったことです。病院の独特のにおいや雰囲気だけでも緊張が増すのに、ここはまるで普通のオフィスのよう。待合室らしく椅子は並んでいましたが、その隅のほうには子供のおもちゃや絵本があって、とても和やかな空気が流れていました。
受付で自分の名前を告げると何枚かの書類を渡され、記入するよういわれました。書類は一般的な情報(氏名、住所など)、加入している保険の情報、自分自身および血縁者の病歴(親戚に各種疾患やがん、糖尿病などの発病者がいるかなど)、コンセントフォーム(個人情報の開示承諾書)など、英語プラス詳細なものでしたので、記入するのにも随分時間がかかりました。
書き終えた書類と保険のカードを受付に渡してまもなく看護婦に呼ばれました。受付の横を通り小さな部屋をいくつか通り過ぎて通されたこれも小さな部屋。 看護婦は私に2、3の質問をし、血圧を測りました。
看護婦が出て行き、いよいよ先生の登場です。
この先生は(Dr. Kとしておきましょう)優しく大きな(?)方で、とてもフレンドリーな応対をしてくださいました。問診表をみながら話を進めてくれるので、聞かれる質問もさほど難しくもなく、素直に自分の心配事と希望を打ち明けることが出来ました。
そして、血液検査、尿検査を行い、結果によってどういう治療が必要なのかを決めるということでこの日は終わりました。でもすぐに基礎体温をつけるよう指示されたのもこの日でした。
とにかく、妊娠、出産という未知の目標を達成すべく、この先生の医療サポートを受けるのだと覚悟を決めたのです。(つづく)
医者嫌いからの脱出 (part 1)
子供の頃から風邪以外の大病にもかからず、注射も予防注射のみでずっと健康には恵まれて育ちました。
家族もお互いの健康にはあまり気遣うこともせずに済んでいましたし、あえて食卓の話題に上ることもなく、成長期も過ごしたような気がします。
高校を卒業する頃くらいからある変調に気づいたのですが、その当時の家族や学校の先生などとの『暗黙の了解』というルールがあったのか、誰に相談することもなく、数年が過ぎてゆきました。
いわゆる『不順』だったわけです。
大学を卒業しOLになってもその『不順』状態は続きましたが、それほど深刻に考えることもなく逆にお荷物が少なくてすむわ?なんて思ったりしたものです。
結婚し、家族が増えていくという流れにも自然に乗れると思っていたのですが、どうも乗り遅れてしまったようです。
その当時の興味は子供ではなく自分だったようで、趣味や旅行、買い物に生きていた気がします。
日本で暮らしていたこの時期はダンナも仕事の関係で家を空けることも多かったので、子供への興味もなく、わたしの変調にも気づくこともありませんでしたし、わたしもあえて打ち明ける?こともしませんでした。
そして1995年秋、ダンナの故郷アメリカへの永住が決まり、ばたばたとアメリカへ旅だったのです。
自分たちの生活基盤を築くことと安定させていくことに時間を費やし、そのうち就職したりと、ますます家族としてのプランはおざなりになってしまいました。というか、意識しなくなったというのが正直なところでしょうか。
ただ、変調に気づいたころからずっと、「どうしたらいいんだろう…」という不安はいつも頭のどこかにありました。でもそれを誰に打ち明けたらいいのかわからず、まして普通の医者にさえ行かないのに、産婦人科に行くことなど、もってのほかだったのです。
やっとアメリカ生活にも慣れ始めた頃(永住して1年を経過していました)、ふと『子供?』のことを考え始めました。
自然に任せるなんて言ってられない歳に達していたこともあり、義姉に紹介してもらった産婦人科に勇気を奮って行く事にしました。でもまさかこんな結果がでるとは思わなかったのです。(つづく)